2009年5月17日日曜日

小沢一郎研究1

 小沢一郎という政治家はいかなる人物なのか考えてみる必要がある。

 現在の民主党、代表代行に就任したというニュースを本日(5月17日)接して
未だにその影響力が衰えいていないことが残念である。

 正直、小沢一郎に対して斯様なネガティブな意見を持っているのは、やはり
細川政権時の小沢一郎の行動・政治姿勢にある。

 1993年に宮沢政権は倒れ、自民党一党独裁の政治に終始させた時に、
誕生したしたのが、細川政権である。

 そして1年ちょっとでまた自民党が復活させて責任は、当時細川政権あると
考えられる。 首相の細川、官房長長官の武村、そして小沢一郎が天下国家
を考えずに、政権内で強力もせず、政治のイロハも知らない殿様、細川と
小沢嫌いの武村と裏政治に精通しているが国民的人気がない小沢の3者の
エゴがぶつかり合い、空中分解せざるをえない状況に追い込まれる。

 その後の日本の状況を「失われた10年」とよく言うがまさにこの3人が作った
ものと考える。 当然、村山政権などは自民党の傀儡であり、ある意味、細川
政権よりもひどいが上記3人の罪に比べたら比較的責任は軽いと考える。

 そして、今回小沢一郎を改めて見つめなおすとき、私自身の原点は1983年
にある。

 1983年といって、すぐにどういう状況か思い浮かべるのは難しいと思われる
が、私自身もまだ高校生であり、初めて小沢一郎をテレビにて見た年であった。

 高校生で小沢一郎の存在をしるというのは、私が小沢一郎の選挙区が地元
の同じ県(岩手)出身である。

 なぜ、それほど印象に残っているかといえば、1983年の第37回総選挙は
田中角栄の実刑判決後の最初の選挙だった。 田中の選挙区に作家の野坂
昭如氏も出馬し、盛り上がったが、結果は22万表を田中は集めらくらく当選
したときである。

 一方の小沢はすで衆議院議員を5期務めていたが、田中派ということもあり、
ぎりぎりで当選したことえをいまだに覚えている。

 テレビで水沢の彼の事務所とテレビがつながったときの青ざめた表情は今でも
忘れられない。 

 1年後、竹下登とともに勉強会という形で田中派から離脱した時、当然の流れの
ように感じられた。 田中派では総理を出せないというあせり、また脱田中を後の
経世会のメンバーは思ったものと考えられる。

 次回はその辺を中心に論じていきたいと思います。

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