2009年5月18日月曜日

小沢一郎研究2

 小沢一郎を論じる場合、田中角栄、竹下登、金丸信の3人とのかかわりを
論じないことには小沢像を正確につかめない。

 前回説明した1983年の総選挙が田中派のターニングポイントであった。 
当時の田中角栄は闇将軍としての地位を築き、大平、鈴木、中曽根政権に
おいても絶大な権力を掌握していた。 
 田中角栄が権力2重構造を作ったといってよい。 その後日本の政治に、
いかに悪影響を及ぼしたか言うまでもない。
 要するに影の支配者的存在の政治家(金丸、野中ら)が傀儡政権が乱立し、
強力な内閣(総理主導の政治)とは言いがたいものばかりであった。
 派閥、族議員によるコンセンサス型の政治が跋扈していた。国民から誰が
リーダーシップを発揮しているのかわからないものであった。
 それは、自社さきがけ政権のような連立内閣にも現れ、その影響力から
逃れることはなかった。
 
 こうした中で反田中というより、竹下・金丸の経世会は当初は権力の二重
構造に対する国民の拒絶反応に対する、自分たちの派閥から総理候補
(竹下)を担ぎたいというものだったのだろう。
 しかし、竹下政権崩壊後は権力闘争の中で、経世会が影の支配者になって、
宇野、海部、宮沢政権を作ってきたことは田中政治の踏襲といってよいだろう。

 田中角栄は佐藤栄作から独立する形で田中派を作り、佐藤栄作の意に
反して、福田赳夫より先に総理の座を射止めた。
 竹下登もまた、田中派から独立するかたちで1984年に経世会を発足させる。
その中で小沢一郎は七奉行と呼ばれたメンバーの一人だった。

 また、金丸が東京佐川事件で失脚したとき、経世会内部の権力闘争の中で
小沢一郎は自民党を飛び出し、新生党を立ち上げた。
 まさにある意味、田中、竹下、小沢には同じ政治的DNAが流れていると
いってよいのではないか。 
 最も小沢のみが総理の座を射止められなく、縁の下の力持ち的立場に立た
ざるをえなかった。
 今回の西松事件での秘書の逮捕による、世論の反発から代表を辞任した
ことによって、小沢の総理の芽はなくなったのはではないかと考える。
 
 こうした田中型、経世会的政治は小泉政権によるパワーシフトによって影を
潜めることになった。

次回に続く

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